~この世界を素晴らしく~

本を読み、映画を観て、音楽を聴き子供を育てる。「どこにでもいる誰でもない私」の日常の記憶。

『春にして君を離れ』 アガサ・クリスティー 中村 妙子訳

第二次大戦が始まる数年前のイギリス。田舎の弁護士の妻として3人の子育てを終え夫と二人の人生を送り始めている主人公ジョーン。

 

結婚後中東に住む末娘の体調不良を見舞うためバグダッドへ向かい、イギリスへ帰る途中、砂漠の中の駅に数日足止めを食らうこととなり、砂漠の真ん中の宿泊所に取り残されたジョーンはろくに話す相手もなく、手持ちの本も読み尽くし予期せぬ孤独の中で自分自身と向き合う。

 

寄宿女学校を卒業し、一族が弁護士事務所を経営する夫ロドニーに出会い、結婚。3人の子供に恵まれ、事務所の共同経営者として忙しく働く夫を支えながら女中やコックなどの使用人を使い家事を切り盛りしてきた自らの半生を、ジョーンは上手くこなしてきたと考えている。

 

しかし旅先で出会ったかつての旧友の一言をきっかけに改めて振り返る彼女の人生は各場面に本人が気づいていない(もしくはあえて見えないようにしていた)夫や子供達とのズレか随所に潜んでいる。

 

農場経営を望む夫の希望に対して家族の将来を理由に取り合わない妻。子供達の人生の選択に際して親の責務を最優先して本人の意向を汲む事が出来ない母親。

 

家族や他人を思いやる気持ちに欠ける彼女に対して時折浴びせられる皮肉の言葉にもその意味を感じる事が出来ないジョーン。

 

日々の主婦業、母親業を理由に目をそらしてきた周りとのズレにふと取り残された砂漠の真ん中で逃げ場もなく自分自身と向き合う過程で気づいてしまう。

 

無自覚に他人を傷つけているジョーンのキャラクターが少しづつ暴かれていく話を読み進めるうちに「こんな人確かに居るなあ。」というあるあるの感情から「周りの気持ちに気づけない愚かな人格が読み手の自分の中にもあるのではないか?」という恐怖に変わってくる。

 

自らの愚かしさに気付けない人ともはやその人が変わること諦めてしまった人々とのやり取りは一見コメディの様でもあるが決して分かり合えない人間がともに過ごさなければならないという人生の絶望を感じさせる。

 

そんな絶望を抱えながらも子供達に真摯に向き合い、変わることがない妻に愛情を向ける終盤の夫ロドニーのモノローグはこの物語の救いのようでもあり、また自らの無自覚さに恐怖した読者に対しての希望のようでもあった。

 

 

 許されざる恋へと向かおうとする娘を説得する場面でロドニーの言う「自らの望む仕事に就く事が出来ない男は男であって男でない」というセリフが私には一番しんどい言葉でした…。