~この世界を素晴らしく~

本を読み、映画を観て、音楽を聴き子供を育てる。「どこにでもいる誰でもない私」の日常の記憶。

わたしは何のためにことばを書くのだろう?『忘却についての一般論』 ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ 感想

 

 

 

何の予備知識もなく、単にタイトルが気に入って手に取った本はアンゴラ出身の作者による私には初めてのポルトガル語圏の文学だった。

 

しかし読み進めるうちにすっかりこの本の言葉たちに魅了され、ずっと手元に置いておきたい本になった。偶然の出会いに感謝している。

 

1970年代のアンゴラ独立にまつわる騒動をきっかけとして自室に文字通り閉じこもり、(部屋につながる廊下をセメントで塞いでしまう)およそ30年孤独に暮らす女性ルド。

 

ファンタズマ(幽霊)と名付けた犬とともに厳しい飢えや渇き、そして極限の孤独に耐えながら独立から内乱へと移り行く外の世界から断絶した世界で生きるルドの日々。

 

そして混乱する外の世界では革命や戦乱、投獄などに人生を翻弄されながら生き続ける登場人物たちの物語も並行して進む。

 

物語の終盤でルドと外の世界の人物たちがつながっていくストーリーの鮮やかな展開も素晴らしく思わず最後のページを読み終えてすぐもう一度頭から読み直すほどだった。

 

結局いま三回目を読んでいるところだが、続けて同じ小説を読んでしまう経験は私には初めてで何故だろうかと考えている。

 

たぶんこの物語のテーマ(孤独・ことば・そして忘却)が私の心を惹きつけるのだろうか。

 

孤独な生活の中で自らのことばを部屋中に、ついには壁にまでも書き連ねるルドの姿は時代や場所は違ってもこうしてブログを書いて生きている自分のような人間にも共感を覚えさせる。

 

そして彼女が書き綴ることばを読むと「書く」という行為が「忘れない為」にあるということを思い出させてくれる。

 

他者が存在しない世界に住むルドはその時の想いをことばに残し、「わたしであった人」を忘却から救い出そうと書き続ける。

 

たぶん私も「生きづらさ」という壁に囲まれて、ただおろおろと消え入りそうな毎日の中から忘れたくないことを拾い集めてブログを書いているのかもしれない。

 

だれの為に書いているのかはまだ分からないが。

 

来年は鈴鹿に行こう。

先週の金曜日(10/2)に発表があってからホンダ撤退について報じるニュースをたくさん目にした。

 

ほとんどのファンと同じようにこのニュースに対する私の感想は残念の一言。

 

そしてその先に感じるのはF1の将来に関する不安。

 

PUサプライヤーとして日本企業がいなくなり、さらにF1ドライバーまであと少しというところで戦っている角田裕毅のアルファタウリ昇格が怪しくなっている状況ではこれまで続いてきた日本GPの継続も厳しいのではと予想してしまう。(現在の鈴鹿の契約は2021年までで、可夢偉がF1シートを失ってからの観客の減少を考慮すると特に。)

 

また今回のホンダの撤退理由ではと指摘される高コストPUの費用対効果や自動車業界の方向性(EV化)との乖離などはF1そのものの存在理由に関わる問題だ。

 

電気自動車になり車のコモディティ化が進む状況で今のような内燃機関を含む複雑なPUを搭載する自動車レースは世間の価値観とは違うものになってしまうのではないかと心配する。

 

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とはいえ私のようなおっさんはどうしてもホンダの過去の栄光の記憶からは逃れられないのか、ついつい自分のスマホからこんな写真を引っ張り出してノスタルジーに浸ってしまう。

 

 

『LIFE 3.0 人工知能時代に人間であるということ』 マックス・テグマーク

 

 

 

MIT教授で安全なAI研究を推進する団体の設立に関わった著者による「人間を超える知能を持ったAIの誕生は人類に何をもたらすのか」と「どうしたら安全な超知能AIを開発できるのか」についての考察。

 

AIの未来に関する議論に頻出する単語(生命・知能・記憶etc.)について定義を規定した上で現在の理論で予測可能な複数の仮設を検証する。

 

また超知能な存在が人類に及ぼす影響についても推測可能なすべてのパターンについて考察し、考えられる悪影響を回避する為に今後なにをすべきかを提案する。

 

人間よりも賢くなる可能性をもつAI技術は人類の幸福の最大値を増大させる可能性と同時に人類を破滅に追いやる可能性をもつプロメテウスの火だ。

 

かつてその言葉で例えられた原子力を超える程の影響力を持つかもしれない超知能をいかに扱うべきか?(あるいはそれを扱う前に人はどうあるべきか)を読む人に問う。

 

AIが知能爆発を起こす過程をシミュレートするストーリーや超知能が発生した場合の人類の未来図についてはSF設定の元ネタとしても読む事が出来るし、どのような目標をAIに設定すれば良いか?を考える章では哲学的テーマを掘り下げる。

 

また生命・知能とは?を考えながら宇宙の概念にまで及ぶ考察は(筆者の専門分野でもある)物理学や宇宙論にまで広がっていく。

 

人類の運命を左右する可能性のある技術についての研究は一部の研究者だけでなく、より多くの人たちが参加する必要があり、その入り口として書かれた本。

 

AIに関する議論が将来の私たちを分断する(推進派vs反対派のような)テーマに陥る事無く、人々を結束させるテーマ(未来とは?幸福とは?)になることを願う。

 

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「その本どんなおはなし?」と聞かれてAIの怖さの例えとして「ドラえもんのび太を殺しに来たロボットだったら~」と答えて娘の心に暗い種をまいてしまい少し後悔

 

100年前を思い出す

土曜出勤の朝、イライラしながら車に乗り込む。

 

カーラジオしかついていない会社の営業車ではピーター・バラカンの番組がかかっている。

 

ジャニス・ジョプリンのライブ音源に続いてストーンズの『山羊の頭のスープ』のリマスター版からの曲がかかり始める。

 

頭の中のイライラが隅に追いやられ、ストーンズのこのアルバムについての記憶が蘇る。

 

今も物置の段ボールの中に眠っているはずのそれは私が高校生の時に新品のCDで買ったものだ。だからヴァージン盤のリイシューCDだと思う。

 

なるべくすべての小遣いをレコードやCDに費やしてはいたがそれでもレンタルや中古でやりくりしながらなるべくたくさんの音楽を聴こうとしていたあの頃。『ステッキーフィンガーズ』や『メインストリートのならず者』みたいな名盤は中古盤も見つけやすく、私の住む田舎のレンタルショップの棚にも置いてあったが、それら名盤と比較して(当時は)一段落ちる評価だった『山羊の頭のスープ』は結局新品で買うしかなく、それでも輸入盤というなるべく安く済む方法で手に入れたのだった。

 

ラジオから『100 years ago』のオルタナティブテイクが聞こえてくる。

 

高校生の私には『メインストリート~』のレイドバックした雰囲気よりも『山羊の頭のスープ』の割とエフェクター多めの分厚い音色の方が好みだったことを思い出した。

 

その後大学生になって手に入れたマルチトラックレコーダー(ROLAND VS-840)にこのアルバムのギターをイメージした音色をプリセットして「goats head」と名前をつけてひたすらそればかり使っていた。

 

そんなCDもギターもマルチトラックレコーダーもましてやこんな記憶さえ忘れた存在として今日の今まで思い出すこともなく私の生活の隅に追いやられていた。

 

まるで100年前のことのように

"it seemed about a hundred years ago"

 

ラジオの中で'73年のミック・ジャガーが歌っている。

 

大人にならなければ良かったと思うことはないかい?

"Don't you think it's sometimes wise not to grow up ?"

 


100 Years Ago (Remastered)

『T2 トレインスポッティング』

 

T2 トレインスポッティング (字幕版)

T2 トレインスポッティング (字幕版)

  • 発売日: 2017/08/09
  • メディア: Prime Video
 

 

90年代後半に青春を過ごした私の様な人にとってはおなじみの”あの映画”の続編。

 

あの頃はレコードショップや古着店、雑貨屋などいたるところにユアン・マクレガーの写ったポースターがあって、あっちこっちからイギー・ポップアンダーワールドが聞こえていた記憶。

 

それからしばらくして私も青春時代を通り過ぎ、時代の方もレコードショップや古着屋なんか必要としなくなったように思える20年後の現在。(たまに剥がすのを忘れられた色褪せたオレンジ色のポスターを目にすることはあったが。)彼らは今どうしているのか?という映画。

 

もともと『トレインスポッティング』自体が純粋な名作映画といったわけではなく、あの時代をみごとに切り取った映画という(あくまで私の)評価なので、けっして同世代以外の人が別の時代になっても観る映画でもない。

 

なのでどう考えてもあの頃を通過した人たちだけに向けた映画だと思う。

 

前置きはこれくらいにしてかつてのクズ野郎達の20年後はどうだったのかというと、まあ予想通り「クズ野郎のままでした」ということなのだが、だからといって全く悲壮感のようなものは(前作同様に)感じさせない。

 

20年経って変わった人物としては弁護士になっているかつての女の子だけだが、そもそも彼女は主人公たちよりも若い世代だったので見事に現代社会に適応できる若者世代としての登場で相変わらず間抜けのままのおっさんたちとの対比になっている。

 

”ある特定の世代(ターゲット)に向けたしかも前作とやっている事はほぼ同じの登場人物が20年歳を取っただけの映画”といった書き方をすると「なんだ、ただの同窓会映画じゃないか」と思われそうなのだが、実際にそうなのだ。だから私には”良い映画”だったのだ。

 

知らない世代の同窓会に顔を出したところでつまらないのは当然で、同窓会は自分の年代に出席しなければ意味はない。(あたりまえだけど)

 

あれからあっという間に髭とフォースを携えてオビ・ワン・ケノービになってしまったユアン・マクレガーが嬉々とした表情でスパッドにゲロを吹きかけられたり、いい歳して全力疾走で逃げ回ったりしているのを眺めていると、あの頃の”あいつ”や”あの娘”たちは何処で何をしているのだろうか?とふと考えてしまう、そんな今はおっさんやおばさんになった我々に向けた映画なのでした。

『羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季』 ジェイムズ・リーバンクス

 

 

 

イングランド北西部、有名な景勝地でもある湖水地方で代々続く牧畜業(羊飼い)を営む著者の綴った本。

 

湖水地方の四季に分けられた章ごとに羊飼いの日常と作者の半生を織り交ぜながら伝統的な羊飼いとして生きる事の誇りを説く。

 

数百年続く営みを受け継ぐ羊飼い達の生き方は現代のグローバルな資本主義的価値観とはかけ離れた存在だ。

 

いや数百年変わらない価値観を持ち続けている羊飼い達に対してその価値観を変え続けてきた社会の方が彼らの側から離れて行ったと言うべきか。

 

しかしそんな現代社会とは対極な羊飼いの生き方が私の心を引き付けるのはなぜだろうか。

 

学校の教師達が必死に訴える現代的価値観を心の底から否定しながら育ち、自らの父についても”世界中の大富豪から人生を交換してくれとせがまれても、父は断るにちがいない”と言い切る生き方は「向上心や成功」といった現代に生きる人間にのしかかる強迫観念に対するアンチテーゼなのかもしれない。

 

過酷な労働条件や厳しい自然に囲まれ、汗と泥と羊の匂いにまみれて生きる地に足の着いた人生の物語はものすごいスピードで価値観の平均化が進んでいる世界にも「ここではない何処か」があることを教えてくれているようでもある。

 

変わり続けた社会の価値観の変容を遡れば彼らのような生き方はごくありふれた生き方だったはずが今ではものすごく貴重なものに思え、そして失ったものを持ち続ける彼らに対する強い憧れを感じさせる。

 

成功する事に囚われて浮つき続けた私の心は、求めた成功とはかけ離れたところで悩み続けている。見失ったものさえ分からない私にこの本は誇りをもって生きる事の大切さを気づかせてくれる。そしてその人生の誇りはきっとここではない何処かではなく、自分の人生の足元にあるはずと言うことも。

カエルの子を見るカエル


 

最近たまに一番上の娘(小3)と将棋を指す。昨年の暮れぐらいに9マス将棋を買って何度かやってみて、その後も時たま思い出したように対戦していた。先月にスーパーの玩具売り場の目立つところに置かれていた1000円の本将棋セットを買い81マスで対戦している。

 

「子供と将棋を指している」と言うとほぼ必ず「藤井壮太を目指しているの?」的な返しをされる。「全然そんなことないし」と言いたいがそもそも9マス将棋を買ったのも藤井二冠(2020年9月現在)の活躍で増えた将棋番組をテレビで観たからだし、普通なら売り場の隅で埃を被っていたはずの将棋セットが売り場の目立つ場所に置かれていたのも彼のおかげなのだから全くもって意識していないとは言い切れないのかもしれない。

 

とは言え、月並みな親を自認する私がわが娘に望むのは「将棋を覚えて少しは考える子供になってくれないだろうか」くらいのレベルの事だったと思う。

 

これまでの経過は9マス将棋で駒の動きやルールを覚え、本将棋で対局できるところまでは来た。その先の勝負に関してはハンデ(角、飛車、香車、桂馬、銀将無し)をつけてようやく対等なレベルといったところ。

 

「知らないゲームを覚えて遊ぶ」ことについては興味を持てたらしく、わりとスムーズに現状のレベルまでは来た。ただ勝負を楽しむ段階には至ってないらしく、勝つための工夫だったり少し深く考える様子は今のところない。

 

私も自分なりに辛抱強く彼女の興味がわいてくるのを待っているつもりだが、設定したゴールの「少し考える子」にはまだまだ程遠い状態。

 

どうしたらもっと上手くいくのかなぁ、と思いつつも同級生との将棋に勝った試しもなく、負けが込むとハサミ将棋や将棋崩しにゲームを切り替えようとするまるで根気のない自らの少年時代を思い出し、目の前の娘はそんな自分の半分を確実に受け継いでいるのだなとあきらめるような気持ちに少しのうれしさみたいなものが混ざった変な気分で将棋盤の向こうのわが娘を眺めている。

 

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安いプラスチック製の将棋セットは洗い物途中の濡れた手も気にせず将棋を指せる