~この世界を素晴らしく~

本を読み、映画を観て、音楽を聴き子供を育てる。「どこにでもいる誰でもない私」の日常の記憶。

『マイルス・デイヴィスの真実』 小川 隆夫 感想

 

 

 

私にとってのマイルス・デイヴィスの入り口は『ビッチズ・ブリュー』だった。

 

大学生の時にポストロック的な音楽を聴くようになり、それらに影響を与えたロック以外のジャンルに興味を持ち、同じような音楽趣味の友人に借りて聴いたのが最初だったと思う。

 

そこから遡って『カンド・オブ・ブルー』などのモードジャズの頃なども聴くようになり、ジャンルとしてのジャズも聴くきっかけとなった事を思えばエレクトロニック期から入ったとはいえやっぱりマイルスが私にってはジャズの入り口となったアーティストだ。

 

マイルス・デイヴィスの真実と謳った本書はかなり分厚く(600ページ程)手に取った時は読み切れるか不安だったが、いざ読み始めたらあっという間に読み終えてしまった。

 

著者自身によるマイルス本人に対する複数回のインタビューや各時代に関わったミュージシャンなど多数の証言を基にマイルスの音楽キャリアが時代を追って綴られている。

 

文章の切り口としてはいわゆるジャズ評論的な内容は薄く(各時代の評論家からの引用は一部にあるが)、どちらかといえばマイルスを中心にしたモダンジャズの壮大な大河ドラマを見ているような雰囲気だった。

 

この本で感じたマイルス・デイヴィスという音楽家のモチベーションはどんな時代であっても「常に新しい音楽を生み出す」ということだった。

 

いつも今までにない表現を探るマイルスの音楽はきっとリアルタイムで聴いていた人たちにはスリリングな体験だったに違いないと思った。

 

そして常に新しいものを追求するプレッシャーにさらされたマイルス自身のストレスや孤独を感じさせる言葉がインタビューの中から時折漏れてくる箇所や、著者とマイルスの個人的付き合いからの逸話(突然の雨にマイルスが傘を持って迎えに来るところなど)がレコードや評論からはわからない一人の人間としてのマイルス・デイヴィスのキャラクターを魅力的に描いていて「ジャズの帝王」と言われる偉大な人物を読者に身近に感じさせてくれる部分で良かった。

『口語訳 遠野物語』 柳田国男 佐藤誠輔訳 感想

 

 

口語訳 遠野物語 (河出文庫)

口語訳 遠野物語 (河出文庫)

  • 作者:柳田 国男
  • 発売日: 2014/07/08
  • メディア: 文庫
 

 

 

この間読んだ『アメリカン・ブッダ』に収録されていた『鏡石異譚』に遠野物語がテーマとして取り上げられていて興味を持った。

 

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原典を少し読んでみたら文語体で読解するのが難しそうで読みやすくしたものは無いのかなと調べてみたら本書が見つかった。

 

明治40年頃に柳田国男が収集した岩手の遠野地方に伝わる話を紹介する民俗学の先駆け的な本で古典の扱いをされている本。

 

登場するのは山男に山女、天狗や狼、狐に幽霊など日本に古来から伝わる不思議な話がたくさん紹介されている。

 

柳田が実際に聞いた時代にはこれらの話は数年から古くても数十年前の話で、登場する人物たちも何処の誰々、もしくは誰々さんの爺さん婆さんの話となっており、「昔々の~」で始まるおとぎ話的なものではなく、(当時の)現在と地続きの話として語られている。

 

読んだきっかけがSF短編であるからだろうか、この本も明治日本を舞台にしたSFやホラー、オカルトのショートショートといった感じで読む事が出来た。

 

ひとつひとつの話も短く(1ページも無い話が多い)、昔話やおとぎ話のようなオチや教訓めいたものは無く、ただただ不思議な(怖い)体験談が綴られる。

 

特に興味深かったのが天狗や山男・山女などの人の姿かたちをした「人ならざるもの」が登場する話。

 

山深い場所で遭遇するそれらのものが暗示する産鉄民などの漂流民や一部に住んでいたとされる外国人など、当時のこの世の世界には住むことを許されなかった人々の”あちら側”の世界と一般的な農民たちの住む”こちら側”の世界が交わる時に産まれる物語。

 

歴史の授業で習うことはないが間違いなく存在した”あちら側”の世界が、明治に実在した人たちの口から語られる話の向こうに透けて見えるという構図が面白く、歴史書だけに残されたものだけが本当の歴史ではないのだなということを気付かせてくれる本だった。

『 i 』 西加奈子 感想

 

 

i (ポプラ文庫)

i (ポプラ文庫)

 

 

 

『十歳までに読んだ本』に書かれていたエジプトのミイラにまつわるエピソードが印象的で、また去年に又吉直樹の著作を何冊か読んだ際にお勧めの作家として西加奈子の名前があり、気にはなっていたのだが読むタイミングが無くしばらく経ってたまたま表紙が気になって手に取った本の作者が西加奈子となっていたので読んでみた。(その特徴的な表紙も作者本人によるものらしい。)

 

初めて触れる作者の作品はやっぱり新鮮だ。物語の予想がつかない。

 

気に入った作者の作品はいくつか読むうちに主人公の性格だったり、登場人物のパターンや作品そのもののテーマがある程度予測できる中で「今回はどんな話だろう?」と楽しむものだが、初めての作者の場合はそうはいかない。

 

主人公の設定や登場人物の性格、セリフ言い回しや文章表現の仕方など一つ一つが新しい出会いでそれらが自分に違和感なく入ってきたりすればなおさら新しい出会いを楽しむ事が出来る。

 

実はこの本の場合は最初に紹介される主人公“アイ”の経歴が特殊で(シリア産まれでアメリカ人と日本人の両親に育てられた養子で日本の高校に通う、名前はワイルド曽田アイ)上手く物語に入り込めるか不安を感じながら読み始めた。

 

しかし作品がアイデンティティをテーマとした物語で、(だから主人公の名前はアイ)自らの拠り所のない立ち位置を表現する為なのだと分かったらこの複雑なアイの生い立ちも理解する事が出来た。

 

彼女は世界の不幸なニュース(戦争、震災、事故や貧困など)に触れるたび「何故自分ではなく彼らが悲惨な目に合い死ななければならないのか?」と負い目のようなものを感じている。

 

惜しみなく愛情を注いでくれる両親に対しても「血のつながらない自分はいつか必要とされなくなるのでは?」と恐怖を抱えながら成長期を過ごす。

 

移り住んだ日本では自分を異質な存在と認識してより孤独を深めていく。

 

そんな彼女が高校時代に耳にした「この世にアイは存在しません。」という言葉が自らの存在意義に疑いを持ち続ける一人の女性の物語のキーフレーズとして繰り返される。

 

孤独なアイの物語に取り上げられるのは貧困や戦争など、世界に存在し続ける不幸についてでもあり、またLGBT不妊の問題など個人についての現代的な問題もテーマになっている。

 

シリアとは何の関係もない私でも(日本では極端に少ない)シリア内戦についてのニュースや難民を報じるニュースを見ると「何故こんな不幸が存在するのか?」と思いながらもそんな現実にただ胸を痛める事しかできない自分に嫌悪感を覚えるという経験が少なからずある。

 

そして日本人として日本で青春時代を過ごした人でも「他人と違う自分」や「普通になれない自分」といったことで悩んだことはあるだろう。

 

だからアイが抱える孤独に共感することができるし彼女の場合はその孤独が私のものよりさらに深いものだろうと想像することができる。

 

そして彼女の孤独を癒し、アイデンティティという自分の意味を手に入れる為に重要なのが友や恋人などの他人と心を通わせる事というのも自らの経験を振り返っても共感できる部分だった。

 

「この世にいてくれるだけでうれしいと思える人の存在が私もこの世に生きて良いのだと教えてくれる。」

 

この本は私にそう言ってくれているようだった。

『生きるということ』 エーリッヒ・フロム

 

生きるということ 新装版

生きるということ 新装版

 

 

 

1976年に出版された心理学、哲学者エーリッヒ・フロムの著作の新装版を読む。

 

原題は『to have or to be』となっていて現代社会における生き方を”to have=持つ様式”と”to be=ある様式”の二つに分けて考える。

 

産業化以降の社会において人はあらゆる場面において所有する(持つ)ことを重視して富を増やし、さまざまな物(家や車などの物質に限らず所帯や夢、成功などの概念的なものまで)を手に入れることを目的として生きている。

 

しかし際限のない貪欲の追求は限りある資源である地球に住む人類をいずれ破滅に追いやり、満ち足りることのない欲望は常に個人としての人の苦悩の原因ともなる。

 

そういった社会的破滅を回避し、また人としての苦しみからの解放を目指す生き方として提示されるもう一方の”to be=ある様式”。

 

”持つ”ではなく”ある”という生き方の提示として引用されるの初期キリスト教の教えやブッダなどの宗教からの言葉に加え、カール・マルクスの考えも参照されているのが意外だった。

 

社会学や経済学とは無縁な私にはマルクスといえば『資本論』と共産主義思想の元祖くらいの認識しかなく、本書で紹介される人々を富を手に入れる為だけの生活から解き放とうとする意図での社会変革を目指した考えとの指摘が新鮮だった。

 

さらには1976年の時点で既にマルクスの考えが歪曲され利用された現実の社会主義体制(ソビエトなど)の失敗を指摘している点もこの本の古さを感じさせないポイントだった。

 

また富を得る労働からの解放として最近のコロナ禍でも話題となったベーシックインカム的提案も取り上げられている箇所にいたっては読みながら本当に40年も前の本なのかと疑ってしまった程だった。

 

ブッダの思想についてはこの前に読んだ柴田勝家のSF短編『アメリカン・ブッダ』とリンクする内容でもあり、生きる煩悩からの解放というテーマが本書でも語られる。

 

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聖書にあるキリストの言葉の引用の中では有名な「心の貧しい人々は幸いである」が以前に読んだ遠藤周作の『イエスの生涯』からずっと心に引っかかっていた一文だったのを思い出した。

 

原始キリスト教が徹底的に貧しきもの、持たざる者の側に立つ(当時は異端の)思想だったものが、時を経て大衆や体制の中で変容してしまったことはマルクスとも重なる部分であり、”ある様式”の思想が人々を導くことの難しさの例にもなってしまっているようだった。

 

いま人類は悪しき方向へ進んでいるのだろうか?それとも良くなっている?

 

どちらとは断言できないが悪い方向へ向かっていると感じる場合が多いのも事実。

 

ブッダやキリストの言葉は2千年もの時を超え人々に伝わり、マルクスの思想は数多の革命家に影響を与え一時は世界の半分近くの国家が社会主義的体制だったことを思うとカリスマ達の生み出す優れた思想(ストーリー)は多くの人に伝播することは間違いない。

 

しかしそのラディカルな思想は大衆性を獲得する過程や政治体制による利用を経て当初の「人類を解放し、世界をより良く導く」という目的からは乖離してしまう。

 

この幾度も繰り返す人類の失敗を克服し、現状の”持つ様式”の生き方を否定して、本書でフロムの掲げる”ある様式”で生きる社会(富や物質を追わず、福利の追求を目指し、個人の成長のために生きる社会)に進む選択をすることが我々にできるだろうか?

 

To be, or not to be, that is the question.

このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ

小田島雄志訳 『ハムレット

 

『アメリカン・ブッダ』 柴田勝家 感想 

 

アメリカン・ブッダ (ハヤカワ文庫JA)

アメリカン・ブッダ (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

柴田勝家というペンネームのインパクトと表紙絵が普段手にしないタイプの絵柄だった買おうか悩んだが先に読んだ巻末の解説がおもしろくて購入。

 

www.hayakawabooks.com

 

民俗学を専攻した著者による「民俗学×SF(一部ホラー)」短編を6話収録。

 

一生のほとんど全てをVRゴーグルを付けて過ごす中国少数民族の生活や、厄災を経て大多数の住民がバーチャル世界へ避難した近未来のアメリカを舞台にブッダの教えを説くネイティブアメリカンの話などSF的設定に民族的要素がミックスされている。

 

それぞれの話で取り上げられている要素がどれも好奇心をそそる内容で、この本がきっかけでこの後遠野物語などの日本の民族伝承や初期の仏教思想についての本を読んでみようかと思っている。

 

また2020年の今、タイムリーなテーマとして検疫、分断などいまの社会が抱えている問題も感じさせる内容もあり、そのあたりも面白かった。

 

~追記~

遠野物語を読んだ感想。

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『十歳までに読んだ本』 西加奈子他 感想

 

十歳までに読んだ本

十歳までに読んだ本

 

 

 

最近週末に子供と図書館に行くことが多い。

 

5歳の次女が紙芝居好きで毎週違うおはなしを借りに行くのに付き合って近所の図書館に通っている。

 

一緒についてくる長女(9歳)も自分で読む本を選ぶのだがどうも自分がどんな本が好きなのかまだ見つかっていないらしく割とバラバラなジャンルの本を適当に選んでいる。

 

すっかり子供の視点を無くしたおっさんの私にも、わが子に勧める本の参考にならないかとタイトルが気になり読んでみた。

 

小説家を中心に70人の著者が十歳までに読んだ本の中から印象に残っているものを紹介しながらその時自分がどんな子供だったかを振り返るエッセイ集。

 

児童文学を選んでいる人が多く、ときには同じ本を取り上げる場合もあるが、書く人によって同じ本でも全く違うテイストの文章になっていて面白い。

 

なぜその本を覚えているのかを大人になってから分析することが自分の人生の出発点を探る行為につながったりしていて興味深い。

 

私自身を振り返ると子供時代は文学作品にはあまり馴染みがなく、『~大百科』や『~のひみつ』という本やら漫画などを読んで過ごしていた。

 

でもその中で一冊だけ覚えている本がある。『注文の多い料理店』だ。(割とベタですが。)

 

たしか小学三年の頃に学級文庫(図書室とは別に各クラス内にある本棚の本)に置かれていた『注文の多い料理店』を繰り返し読んでいた記憶がある。

 

小学生を過ぎて大人になる間もふとした時にあの物語を思い出すことがあった。

 

いったいあの本の何が私の心に引っかかっているのだろう?

 

こんど娘と一緒に読んでみよう、子供の時には見つからなかった何かが見つかるだろうか。

『誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち』 スティーヴン・ウィット 感想

 

 

 

CD→ダウンロード→ストリーミングと音楽の聴き方の劇的な変化を経て、いつしか音楽はタダで楽しむものになりつつある現代。

 

その中でも音楽の入手方法をCDの購入ではなくダウンロードに変えてしまったmp3という圧縮規格の誕生から始まる本書。

 

ドイツの研究機関で開発されたmp3が当初はフィリップスなどの(mp2という別規格を推す)巨大資本の妨害によって規格競争で敗れたにもかかわらず、なぜその後音楽ファイルのメインストリームとなりえたのか?を追いかける。

 

その過程で重要な役割を果たすインターネット上でファイルシェアされたいわゆる海賊版コピーに関わる人物たちにもスポットを当てている。(90年代末に学生時代を過ごした著者もかつて海賊版ファイルのユーザーだった)

 

さらに当時のワーナーミュージックのCEOとして音楽界のスター(ドクタードレー、スヌープドッグ、エミネム、ジェイZ等)を発掘しまくっていたダグ・モリスの視点から音楽業界側のストーリーが語られる。

 

上記の3視点の物語それぞれが独立したジャンル(mp3開発=技術開発の苦労や挫折を経て成功に至るストーリー、海賊版シーン=当時のオタク、コンピューター文化を振り返りつつ、違法なファイルシェアがどのように組織化されていくのかを追う社会派ドキュメント、ダグ・モリス=音楽業界が巨大産業化する過程と仕組みを種明かししつつ当時の音楽トレンドの推移を振り返る。)として楽しめる物語でありながら、各々の行動が影響し合いやがて音楽がデータとして流通し、CD産業の衰退という結末へ向かっていく大きな流れとなり”誰が音楽をタダにしたのか?”を解き明かしていく。

 

同時代を音楽を聴きながらもこの物語の中心からは離れた日本に住む私には2000年前後のファイルシェアの大手ナップスターの盛り上がりは何となく分かるかな?という感じだが、もちろんipodが登場した以降のダウンロードがCDを追い抜くまでの流れは肌で実感した記憶がある。

 

ただし同時に個人的にはあれ程までに音楽に持っていた情熱のようなものを失っていく過程とも重なる時期であった。

 

海賊版データを拡散させていたシーンの登場人物たちのように私も歳を取り、仕事の忙しさや結婚や子育ての生活の中で別の楽しみを見つけていったともいえるのかもしれないが実はもう一つ音楽から離れていった理由ではないかと自己分析した要因がある。

 

それはインターネットの存在だ。

 

ネットなるものが存在しなかった時代から2000年代初期くらいまではCDやレコードの情報を入手する手段としてはどれだけ音楽の為に自分の時間を費やしたか?が重要だったと思う。

 

雑誌を読み、(当時はrokin'on、rokin'on japan、buzz、crossbeatsnoozer等とにかく活字の多い媒体を空いた時間に読みまくっていた)CDショップの視聴機をかたっぱしから聴くので滞在時間が数時間に及び、中古ショップは定期的に巡回して前回は無かった新入荷をチェックする日々。

 

とにかく食う・寝る・たまに勉強やバイトの時間以外のほぼ全てを音楽の情報収集に費やしていたような気がする16~22歳くらまでの私。

 

就職して自由な時間が減ってしまいこれまでよりも効率的に音楽を探さなくてはという時期に登場したネット通販やダウンロードサイト。はじめは便利だと思っていたがどうやら私には便利過ぎたようだ。

 

予約せずとも手に入る新譜や限定版。苦労して手に入れた廃盤アルバムがあっさりと見つかるダウンロードサイト。さらにはおせっかいにもオススメまで提案してくる有様はまるでこれまでの自分の行動が無駄なものだったような気にさせられ、急速に音楽を漁る行為の熱が冷めていったように思う。

 

 

やがて音楽ストリーミングの時代になり、どこかに押しやられたCDやレコードを引っ張り出すのが面倒でストリーミングサービスから探し出してはポツリポツリと聞き始めた。

 

それから最近は時間やコストがかからない利点を活用してかつては物理的にフォローできなかったジャンル(クラッシック等)を開拓して聴いている。

 

きっと今の若い世代はこの便利さを徹底的の利用して過去の世代よりも何倍も効率的にたくさんの音楽を吸収して我々が想像もできない新しい音楽を生み出していくのだろうか。

 

もちろんそれはさらにもっと若い世代に向けた音楽で私のようなおじさんには関係のない話だけど。