~この世界を素晴らしく~

本を読み、映画を観て、音楽を聴き子供を育てる。「どこにでもいる誰でもない私」の日常の記憶。

『三体 Ⅱ 黒暗森林』上・下 劉 慈欣

日本語への翻訳スケジュールの都合により前作(三部作の1冊目)から少し時間を置いて読むこととなった2作目の上下巻。

 

前作のラストの展開を忘れていたので思い出しながら読む。

 

内容としてはいわゆるハードSFになるのだろう。ただし今回もそれほど難しく込み入った理論に深入りすることはなく、あくまでも分かり易くストーリーは展開する。

 

個人的に今作の設定のキモとなっているのは地球侵略を目指す異星人「三体人」から地球文明に仕掛けられた智子(ソフォン)と名付けられた陽子の存在だと思う。

 

決して目には見えないこの智子が量子レベルでの地球人の科学技術発展を拒む為たとえ2世紀後の世界であっても地球側の技術レベルは現代の延長線上にあり、未知の超技術やトンデモ兵器などは登場しない。

 

この設定が数百年後の世界を描きながらも科学的に何でもありの描写に制限をかけ、現代と地続きの未来世界を読者に想像させる。

 

また仮に将来量子コンピューターが飛躍的に発展したりした世代の読者がこの小説を読んだとしても、あくまで技術発展に制限がかかった場合の設定世界としてSFものにありがちな時代の流れからくる古さを回避できるのではないかとも思う。

 

またこの智子の設定がこの物語にもう一つの印象を与えているように思う。

 

人の目には見えないが常に人類を監視する智子の存在はもちろん中国という全体主義国家の監視社会を思わせるし、また民主的社会においても近年のSNSによる相互監視の世相を連想させる。

 

また政治的側面としてこの物語を読むとき作者の政治に対する不信感のようなものも感じさせる。

 

一作目の登場人物が異星人にコンタクトを取ろうとする動機となったのも文化大革命によって家族を失うことによる人類に対する絶望であり、また続編の今作においても異星人襲来に対応するべく世界各国の協議対応場面においても社会主義的アプローチ、民主的政治決定プロセスのどちらについても否定的に描いている。

 

また物語のクライマックスで明かされ、今作のサブタイトルにもなっている「黒暗森林理論」も救いがなく、社会や政治に対する絶望の比喩的表現に思える。

 

そんな社会政治に対する不信を抱きながらもそれに対抗する手段として決して監視できない個人の思想であったり、異星人とのコミュニケーションで愛を論じるなど個人・人間への尊厳を挙げるあたりにこの小説がSFとしてだけでなく一般的な小説としてヒットしている要因かなとも思う。

 

 

三体Ⅱ 黒暗森林(上)

三体Ⅱ 黒暗森林(上)

 

 

三部作の最後は日本語で来年(2021年)になるそうだ。

 

…また内容を忘れて読み直す事にならなければ良いが。